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今週は脳を休める週間なので、このことについて考えるのは来週以降に回そうと思ってたけど、風呂に入ってて思いついてしまったのでメモだけしておく。これをメモしたら再び忘れる。
いわゆるデスゲーム的なものがサブカルチャーに現れるのは、スティーブン・キングの『死のロングウォーク』であり、そしてそれが一旦日本に行って、『バトルロワイヤル』になった後、さらにそこから「ハンガーゲーム」(米)「イカゲーム」(韓)となっていく。
ただ、そこで日本以外の国では、デスゲームを開く体制は、大体全体主義であったり、全体主義が強要する新自由主義の隠喩として描かれる。そして、その全体主義・新自由主義に対し、個人がいかに虐げられ、分断統治されるか、あるいはその圧政に反逆するか、というのが描かれるわけだ。
ところが、日本においては、近年のデスゲーム的想像力の元祖である、小説版『バトルロワイヤル』とかも、一応設定として全体主義とかは踏襲しているのだけれど、しかし実際に小説内でキャラクターとして体制側を象徴するのは、金八先生のパロディみたいなキャラクターなんだよね。
小説版『バトルロワイヤル』において戯画化されるのは、全体主義というよりは、「みんな仲良くおててを繋いでゴール」みたいな、戦後民主主義なわけだ。そのような、人間を善性として捉える戦後民主主義の建前に対して、「でもみんな生きるか死ぬかの問題になったら、殺しあうんだぜ」みたいな露悪を突きつけるものとして、日本型デスゲームはあったし、現在の多くのデスゲーム作品も、その類型に近い。そして、そのような露悪が、「人間なんてみんな汚い」という中二病的心性と見事にマッチしたからこそ、青少年の間でデスゲーム的作品は流行り続けていると言える。
そして、その類型に対してのツッコミとしてならば、確かにみやも氏の言うような「構造的な影響関係を抜きにして人間の本質とか(笑)」というのは的を得ているとは思う(ただそれはそれとして、人間の本質というものを見つけようとする、中二病的ピュアさも、僕は大事だとは思うけど)。
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ただ、一方で日本のデスゲーム的作品が、そういう、戦後民主主義へのカウンターとしての露悪だけかというと、そうでもないと思うんだよな。始まりはそこにあったし、主流もいまだにそこにあると思うけど、そうでない流れというのもある。
たとえば、小説版『バトルロワイヤル』を原作とした深作欣二監督の映画版「バトルロワイヤル」。この作品においては、金八先生のパロディのポジションは、今度はビートたけしによって「親父狩りにあうような哀れなオヤジ」として描かれるわけだ。そして、そのような情けない哀れなものが、国家権力を笠に着る。情けない哀れなものであるもののルサンチマンが、体制側に付くことによる、暴力を描いているわけだ。
デスゲーム的な作品としては、往々にしてデスゲームを仕掛ける体制側を、完全無欠な悪役として描くわけだけど、映画版「バトルロワイヤル」で描かれるのは、体制側も情けない哀れなものであるということ、むしろ、情けない哀れなものであるからこそ、体制として暴力を振るうわけで、そして実はそういう暴力こそが、人間社会においては一番凶悪であると、描いていると言える(それこそ、「仁義なき戦い」の山守が、作中では一番情けない人間であるにも関わらず、幾多の狂犬の屍の上で栄えるように)。
これは、ある意味では、まさしくアーレントがアイヒマンに対して「凡庸な悪」と指摘したように、「構造的な悪こそ一番の悪である」という人文社会科学的視点が、込められていると、言えるのではないか。
そして、このような「情けないものが体制側に組み込まれることの悪」を描いているデスゲーム的作品の一つとして、カイジも挙げられると思うんだよな。あの作品における会長は、怯えるパラノイアとしか言え言いようがないんだけど、そういう人間が権力を持って、構造を拵える側になっちゃうことにより、人々が虐げられる様子を描いているわけだ。
そして、そういう構造の悪に立ち向かうのが、何も言わずに落ちた石田のおっちゃんのように、構造に回収され得ぬ個人の善性であるというのが、カイジの基本的メッセージであると言えるわけだ。
「人間は構造によって善にも悪にもなる」という、社会学的啓蒙は重要なんだけど、しかしそのような啓蒙は一方で、アイヒマン的な「凡庸な悪」を止められないわけで、そこで「構造に回収され得ない個人の善性というものもあるんじゃないか」と、ある種のデスゲーム的作品は示そうとしている。
そのメッセージは、むしろ社会学的啓蒙では解決され得ない問題の先を見据えてるんじゃないかと、思ったりするのだよね。